認知症について ~母の事・第2話~
こんにちは。広島で「癒し」と「ケア」と「楽しい」を、みんなで、どこでも、いつでも、分け合うことを目指している 3anyのアロマケアナース “藤原理香” です。ここ認知症・高齢者ケアの部屋では、看護師や高齢者看護研究者としての科学的根拠に基づいた知識や経験、また認知症の母の介護を通して感じた事や様々なエピソードをお伝えしていきます。認知症当事者の方、家族介護者の方、認知症・高齢者看護や介護に携わっておられる皆様の認知症・高齢者ケアにとって何か少しでもお役に立てればと思います。
さて、診断を受けたあとの母のお話。ここには私は後悔しかありません。もっと母に寄り添ってあげたかったし、サポートしたかった。それは看護師としてではなく、もちろん家族・娘として…自分自身が衝撃を受けて、現実を受けいれることが出来ずに、間違いであってほしいという気持ちや、他の病気で母が身体が痛いとか辛いではなかったことは良かったのか、など、自分の受容の過程を進むので精一杯。病院勤務も本当に激務の時で、自分のことで精いっぱい…母に何もしてあげられなかったな…とにかく後悔でしかないのです。母は苦しかったと思います。認知症当事者の方の受け止め方も様々だと思います。診断を受けても、まったく信じないかた、もともとあまり気にされていないかた、どうしようと不安が大きくなるかた…たまに、認知症になるとすべてのことが、一気にわからなくなると考えている方がおられますが、そんなことは全くありません。たくさんの方が不安を抱え、苦しんでいます。そのことを以外と知らない方が多いなと感じています。認知症になったら、わからなくなるから本人はいいよね、苦しくないしと何度言われたことか…そんなことはないんです。他にも、様々な思い違いやまったく正しくない思いこみと偏見がたくさんたくさん存在しています。母との生活や介護を通して感じたことの大きなことに一つにこのことがあり、私は、正しい知識の提供や幼少期からの教育が絶対に必要だと感じました。すぐには無理でも、そのような教育活動になんだかの形でかかわれたらなと思っています。この、偏見や間違った知識と意識をなくさない限り、地域での生活はとても難しいのです。慣れ親しんだ地域で暮らすためには、絶対に必要です。
母の話に戻ります。母は初めの5年くらいは、本当にゆっくりと症状が進行しました。これがお薬(アリセプト)のおかげなのかどうかは、飲んでいない場合が経験できないので何とも言えないところなのですが…私はまだまだ初期のころは、しっかりかかわるというよりは、時々様子を見によったり、一緒にお茶をしたりという程度でした。母は、本当に ”とりつくろい” が上手で、たまに会って話をしていると、認知症の人ではなかったです。しかし、日常生活では、財布を無くしたり、部屋のどこかにしまい込んでしまったり、同じものを何個も買って押し入れの中がパンパンになったりということが起きていました。父は、自由人で全く家族のために時間を使ってきた人ではないですが、母の認知症が発症してからはずいぶん変わったように思います。もともと、失敗を責めたり何かを他人のせいにしたりすることは、ない人だったことも幸いでした。私が何のアドバイスをしたでもなく、父は部屋中のあちこちに張り紙をしていました。「財布は〇〇にいれる」とか「〇〇になったら〇〇する」とか母が忘れたり、間違ってしまうことを次々に張り紙に書いていたようです。母は、しばらくは一人で買い物にも行っていましたし、お料理もしていましたが、だんだん少しずついろいろな日常生活が困難になりつつありました。そんな中、認知症発症から数年後、母が腰をひどく痛がり、腰椎圧迫骨折と診断されました。道路であわてて転んだようでした。痛みには強い母でしたが、あまりに痛がること、仕事に週に3日タクシー運転手として働いている父がいないときに、家で過ごすのは難しそうだったので、入院となりました。いろいろな不安を抱えての入院生活が始まりました。入院中のことは、またこの次に…
写真は、比較的最近のものです。まだ何とか歩けていたころ。この背中を見ると涙が出ます。